ケーニヒスベルグでは、偉大な哲学者イマヌエル・カントが生涯を過ごし、作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンが生まれ育った。この都市で暮らし、働いた偉大な文化学術人には、哲学者のヨハン・ヘルダーとヨハン・フィヒテ、天文学者のフリードリヒ・ベッセル、作曲家のリヒャルト・ワーグナー、政治理論学者のハンナ・アーレントなど、数多くの偉人がいる。
しかし、ケーニヒスベルグはその歴史を通して、常にロシア史と切っても切れない関係にあった。ピョートル1世はここで砲撃の基礎を学び、もしかするとクロンシュタットの建設時に役立ったかもしれない堡塁の設備を目にしていたかもしれない。ケーニヒスベルグには女帝エカテリーナ2世、歴史家のカラムジン、クトゥーゾフ将軍、詩人のジュコフスキー、バラティンスキー、ネクラーソフ、マヤコフスキーなどが訪れている。また、ケーニヒスベルグは七年戦争中の1758年から数年間、ロシア帝国に組み込まれていた。
しかし、歴史的つながりではなく、バルト海にある不凍港というケーニヒスベルグの位置こそが、1945年にこの都市の運命を決める決定的な役割を果たした。ポツダム会議の結果、ドイツの東プロイセン地方の一部がソビエト連邦に引き渡され、1946年7月4日、ケーニヒスベルグはカリーニングラードと改名された。