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ロシア最後の皇帝の死から100年
今から100年前の1918年7月17日未明、エカテリンブルクでロシアの皇帝ニコライ2世とその妻、そして4人の娘オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシアと皇太子アレクセイが銃殺された。皇帝一家と一緒に侍医のエヴゲーニー・ボトキン、近侍アレクセイ・トルップ、女中アンナ・デミドワ、料理人イワン・ハリトノフも銃殺された。
彼らの埋葬地は60年以上にわたって謎のままだった。だが1979年に歴史愛好家らが皇帝一家の数人の遺骨を発見し、1991年にDNA鑑定の結果、遺骨は皇帝一家の一員のものであることが確認された。アレクセイとマリヤの遺骨は2007年に発見され、これらの遺骨もDNA鑑定によって確認された。だがロシア正教会は、DNA鑑定の結果に疑問を呈した。




ロシア最後の皇帝ニコライ・ロマノフ(ニコライ2世)は、1894年に父である皇帝アレクサンドル3世の突然の死を受け、26歳で即位した。ニコライ2世の治世は、ロシア史における最も天恵豊か、かつ悲劇的なページの一つと考えられている。最初の「汚点」がついたのは、1896年5月の戴冠式だった。モスクワのホディンカ原で行われた新皇帝の祝賀行事に訪れた人々が将棋倒しになり、約1500人が死亡した。



写真:ニコライ2世の戴冠
財務大臣ヴィッテの改革により、ニコライ2世の治世下にあったロシアは経済発展の段階にあった。強力な金融システムがつくられた。道路の大規模建設やシベリア及び極東地域の経済開発が始まった。機械製造や冶金関連の企業も増えた。またロシアは最大の農産物輸出国となった。しかし経済成長によって一般市民の労働条件や生活環境が改善することはなかった。住民は実質的に政治的権利や自由を剥奪されており、合法的な政党や労働組合などはなかった。国内では緊張が高まった。
1904~1905の露日戦争終結に際して締結されたポーツマス条約により、ロシアはサハリン南部とポルト=アルトゥル(旅順)を含む遼東半島の租借権を日本に譲渡した。戦争初期のロシア社会では下から上まで愛国機運が強かったが、戦況の悪化に伴い、価格上昇や食糧危機などが生じ、前線では失敗が続き、国内は悲惨な状況となり、社会の機運も変化した。そして戦争はもはやロシア人の意識の中でアバンチュールではなく、残酷で屈辱的な殺戮として捉えられるようになった。
1905年1月9日の平和的デモに対する発砲事件(「血の日曜日事件」)は、1905~1907年の最初のロシア革命を引き起こした。そして皇帝権の制限が宣言され、国民には市民的自由が約束された。1914年、第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国の状況に極めてネガティブな影響を及ぼした。国内の政治的緊張が高まった。同戦争におけるニコライ2世の不成功と悲惨な経済状況は、ロシア帝国の基盤を揺るがし、ロシア全土で暴動やストライキが起こった。この一連の出来事は、1917年3月2日の皇帝自らによる退位宣言につながった。

退位宣言後、ロマノフ一家は政治的出来事の中心地から離れたシベリアの古都トボリスクへ送られることになった。1917年8月、ロマノフ一家は汽船「ルーシ」号で45名の残った忠実な家臣と共にトボリスクに到着した。皇帝一家とその家臣たちには、知事の邸宅が与えられた。9か月にわたってトボリスクは皇帝一家にとって強制的な避難所となった。トボリスクでの生活は皇帝一家にとって漠然としたものではあったが、比較的穏やかだった。ニコライ2世はその日記に「我々にとってここは良い。とても静かだ」と書いている。子供たちは勉学にいそしみ、ニコライ2世は書斎で読書をした。一家はたくさん散歩をし、親族と手紙のやり取りをし、家族で催し物を開いたり、地元の教会に通ったりした。







写真:トボリスで
1918年4月、白軍がニコライ2世とその家族を連れ去ろうとしているとの噂を受け、ロマノフ一家はエカテリンブルクへ移された。エカテリンブルクでは地元の技師イパティエフ邸に幽閉された。ニコライ2世一家は何を感じただろうか?ここが最後の場所になるとうすうす感づいていたのだろうか?彼らに残された時間は、2カ月超だった。
1918年7月17日の深夜1時30分、イパティエフ邸の警備司令官ユロフスキーは、皇帝一家を起こすよう命じた。一家は半地下の部屋に連れていかれた。アレクセイ皇子はニコライ2世に抱きかかえられていた。病気のため歩くことができなかったからだ。ユロフスキーは銃殺隊を部屋に入れ、判決文を読み上げた。そして号令が続いた-「撃て!」。最初に殺害されたのはニコライ2世だった。そして残りの人々も無差別に撃たれた。夜が明け始めたころ、遺体はどこかへ運ばれた。
これが地元のボルシェヴィキの専断だったのか、それともモスクワの許可を得たものだったのか、まだ歴史的事実としては明らかになっていない。
この100年間でニコライ2世に対する大多数のロシア人の考えは大きく変化した。歴史家たちはニコライ2世の欠点や悲劇的な過ちを論じているが、人々の記憶の中には忠実な家庭人であり、愛国者として残った。2000年、ロシア正教会は、ニコライ2世とその家族を聖人に認定した。
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