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ロシアと沖縄:あまり知られていない歴史と現代の数ページ
1854年、ロシアのフリゲート艦パラーダ号は、エフィーミー・プチャーチン副提督の指揮の下、琉球王国に着岸した。 これが地元住民とロシア人が顔を合わせた初めての機会であり、今でもロシアと沖縄はお互いに関心を抱き続けている。宮古島にネフスキー大通りが登場したのもそのためだ。沖縄に住むロシア人を幸せにしているものは何なのか、首里城にはプーチンの肖像画が飾られているのはなぜなのか。「スプートニク」がお伝えする。
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プチャーチンからプーチンまで
ロシア人にとっての沖縄発見
「ここでは人と馬と牛は小さく、雌鶏と雄鶏は巨大だ。木々は大木ばかり・・・人々は礼儀正しく、野菜を食べ、常に会話は丁寧だ。」
フリゲート艦パラーダ号に乗船し、1854年に初めて沖縄を訪れたロシア人作家イワン・ゴンチャロフは沖縄について、このように記している。
イワン・ゴンチャロフ
当時、ロシア使節を率いていたエフィーミー・プチャーチンの名はロ日関係史にしっかりと刻み込まれている(1855年、プチャーチン副提督は日本との間に下田条約を締結した)が、彼が沖縄との関係に端緒をつけた人物であることを思い出せる人はそう多くないだろう。
エフィーミー・プチャーチン
~
宮古島のネフスキー大通り
沖縄の生活にとって重要な役割を果たしたロシア人がもう一人いる。言語学者のニコライ・ネフスキーだ。ネフスキーは1922年、宮古島の住民に衝撃を与えた。島に上陸するやいなや、流暢に島の方言で話し始めたのである。ロシアの言語学と東洋学の教科書には、ネフスキーは素晴らしい日本語研究者だと記されているが、宮古島にとっては、その地方の方言を研究した史上初の人物である。
何がネフスキーをこの遠く離れた島に引き寄せたのかは明らかになっていないが、この島に滞在した1ヶ月足らずのうちに、ネフスキーは大量の論文を書き、宮古島方言の辞書までも記している。これほど高い関心を抱いてくれたことに対する感謝の印として、宮古島の住民は島の中央通りに
ネフスキーの名を冠した
。
このようにして、世界地図に新たなネフスキー大通りが誕生したのである(もうひとつのネフスキー大通りはサンクトペテルブルグにある)。
~
大統領との柔道
沖縄の人々の間で有名なロシア人がもう一人いる。それはV.V.プーチン大統領であるが、ただ国家元首として有名なのではない。プーチン大統領は、就任からわずか2カ月後の2000年7月、沖縄で開催されたG8サミットに出席した。ロシアの新大統領が初めて世界の舞台に立ったこの時、集まったすべての人が抱いていたのは「ミスター・プーチン、あなたはいったい誰なんだ?」という疑問だった。当時すでに大統領が武道愛好家であることを耳にしていたサミット主催者は、具志川市の青少年による柔道演武に大統領を招待した。プーチン大統領が突然ジャケットを脱ぎ、畳に上がってプロの動きで若い相手を背負い投げしたとき、聴衆はアッと驚きの声を上げた。しかし、次に青年に自分を背負い投げさせたことで、プーチン大統領は日本人に、特に沖縄の人々に愛される存在となったのである。
「サミット期間中、柔道と空手が常に注目の的であり続けたことは興味深い。すべてはプーチン大統領が日本で最も競技人口が多く、尊敬される空手の流派である剛柔流から名前入りの黒帯を授与されたことから始まった。剛柔流の幹部はプーチン大統領に道着もプレゼントし、プーチン大統領に九段の免状を授与すると発表した。大統領は日本の伝統に従って、自分はまだそのような高い段位には相応しくなく、空手の師範にはほど遠いと謙虚に答えた。」
2000年、ロシア紙『イトーギ』はこの出来事についてこのように記している。
王宮である首里城には、サミットを記念して、プーチン大統領の写真を含め、沖縄を訪問した各国首脳の写真が飾られている。
沖縄に暮らして5年以上になるウリヤナは、スプートニクに次のように語った。
はい、沖縄の人は覚えています。私が沖縄に来てすぐの頃、誰もがプーチンのことを話していました。もう何年も前のことなので、今では忘れられつつありますが、それでも上の世代の人たちは覚えています。彼らはプーチン大統領がアスリートであることを知っているんです。」
ウリヤナ
2
沖縄のロシア人
遠いようで、近い
沖縄のロシア人観光客は、美しいビーチや豊かな文化だけでなく、ロシア語の情報が豊富なことにも驚かされる。沖縄にそんなにロシア人が来るのだろうか?
ロシア人観光客の数について個別の統計はなく、そのこと自体がすでに、例えば台湾からの観光客に比べると、
数が少ない
ことを物語っている。沖縄ロシア協会の共同創設者の一人である伊藤香織さんによると、沖縄に来るのは空手をやっているロシア人がほとんどだという。
~
「もちろん、地元の人々の間には、寒い、帽子をかぶっている、クマが街中を歩いているといったステレオタイプはあります。」
沖縄には数人のロシア人女性が暮らしており、スプートニクはそのうちの一人に話を聞くことができた。
スプートニク
どうやって沖縄に来たのですか? 沖縄に来てどれくらいになりますか?
ウリヤナ
私は日本人と結婚し、最初は、5年間ほど、東京に住んでいました。それから、沖縄に移住しました。子どもが1歳のときに福島で悲しい事故が起き、私たちはより安全な場所に引っ越すにはどこが良いかを探していました。そして沖縄を選んだのです。
スプートニク
東京と沖縄の両方に住んだことがあるので、比較することができると思うのですが、 沖縄の人々と本州の人々はどう違いますか?そもそも、違いはありますか?
ウリヤナ
まあ、どちらも日本ですからね。ここの人々は親切で誠実だと思います。けれど、沖縄と東京が何もかも全然違うというほどに違うとは思いません。ただ、沖縄は人口が少なく、より安全で、子どもの多い家庭が多いように思います。
スプートニク
日本人はロシア文化に興味がありますか?あまり活動はしていないそうですが、沖縄ロシア協会があると聞いています。そもそも、沖縄の人はロシアに興味を持っていますか?
ウリヤナ
協会はイベントを実施し、ロシア語教室を開き、展覧会を開催し、沖縄の人々にロシア文化を紹介していました。日本人がロシア語を学ぶロシアクラブもあります。もちろん、ロシア語に興味のある沖縄の人はそう多くありませんが、いることはいます。ロシア人は好かれていて、私がロシア人だと聞くと「ロシアは寒いでしょう!ここは良いでしょう」と言います。ですから常に、ロシアは巨大な国で、プラス40度の暑いところもあれば、マイナス60度の寒いところもあるのだと説明しなくてはなりません。日本人はロシアに夏があることにとても驚きますが、少しずつ啓蒙しています(笑)。もちろん、地元の人々の間には、寒い、帽子をかぶっている、クマが街中を歩いているといったステレオタイプはあります。けれど、私がロシア人だからという理由でひどい扱いを受けたことは一度もありません。
スプートニク
沖縄に引っ越してから、あなたの人生にどんな変化がありましたか?
ウリヤナ
沖縄で二人目の娘が生まれました。これは大きな幸せです!それまで、一つの小さな幸せだったものが、今は2倍の幸せになりました。ここでは、家族に対する価値観がとても強く、どこの家庭も子沢山です。私の上の娘はよく「どうしてみんなは3人とか4人の子どもがいるのに、私はひとりなの」と言って泣いていました。総じて、当然のことながら、沖縄に来てから私の人生は良い方向に変わったと言えるでしょう。私は沖縄に来てから、より幸せになりました。沖縄は人の持っている能力を発揮させてくれるように思います。これまでやってこなかったけれど、ずっとやりたかったことがある人は、沖縄に来れば、すべて上手くいくんじゃないでしょうか。
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筆者:
アナスタシア・フェドトワ
デザイン:
アナスタシア・フェドトワ
写真:スプートニク、Toru Yamanaka AFP、Anatoly Krasnov、PhotoAC / O.P.C
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