失われたロシア帝国の金塊、日本で世紀の発見か?
最後の皇帝、ニコライ二世の時代にロシア帝国が保有していた金塊の行方は、今でも歴史家やジャーナリストの関心の的になっている。金塊の大部分は強奪されたか、国外に持ち出されたと考えられている。近年、日露関係が密になるに伴って、メディアには「コルチャークの金塊」と呼ばれるところの金の行方を探る記事が出回るようになってきた。この金塊はどうも、日本に送られたらしいのだ。
ロシアで人気の話題とあって、外務省のザハロワ報道官さえも、このトピックにコメントした。ザハロワ報道官は「現在、ロシア帝国の金塊については、日露間の外交課題になってはいない。日本からは、ロシアに返すべき貴金属はないと回答を得ている。ただし何か新しい根拠が出てくれば、このテーマを再び取り上げる用意はある」と話した。スプートニクは、この金塊がたどった運命について取材を試みた。

消えた「皇帝の金塊」の行方を研究している専門家たちは、ロシア革命の動乱の時代に、金塊のうちかなりの部分が、武器調達の担保として日本に送られたと考えている。武器の受取人となるはずだったのはアレクサンドル・コルチャーク。ロシア革命に伴う内戦の時代、コルチャークは、白軍(白衛軍)の総司令官を務めた人物として歴史に残っている。
シベリアの反革命部隊指導者ら。1列目左から2番目がアレクサンドル・コルチャーク提督。
スプートニクは「コルチャークの金塊」の捜索に直接参加した人物、マルク・マサルスキー氏に連絡をとった。90年代、彼は「ロシアの金」という会社の社長を務めており、同社は、失われた金塊を見つけるため、これに関する文書が保管されている世界中の場所を回って捜索活動をする旅のスポンサーとなっていた。
アレクサンドル・コルチャーク

スプートニク:「コルチャークの金塊」は、どの程度信憑性のある話なのですか?

マサルスキー氏:実に確かな話だ。90年代のロシアでは、モスクワ国際関係大学の教授で歴史家のウラドレン・シロートキン氏をトップに据えた、国際的な専門家の協会が設立され、活動していた。彼と私、そして複数の専門家が10年間にわたって、このストーリーを歴史的に証明する文書を探し続けた。我々の文書探しは、アメリカの著名な探偵社「ピンカートン」の助けを得て、スタンフォード大学の中にあるフーヴァー戦争・革命・平和研究所でも行なわれたし、国際連盟における国家間融資についての情報がある文書庫でも行なわれた。しかし、最も重要な文書は、モスクワにあるロシア外務省の書庫で見つかった。それは「露西亜国立銀行へ融通契約」という書類で、1919年10月に署名されたものだ。そこには、日本の銀行がロシアの銀行に、更に三千万円を融資する用意があると書かれている。文書には「第二回」と書かれているので、こういった契約は既に一回あったと考えられる。我々は、この貸付は、コルチャーク率いるロシア政府へのものだと考えている。当時、コルチャークの地位はロシアの元首だったからだ。彼の軍は切実に武器を必要としていた。なので、我々の意見では、日本は、この三千万という金額に相当する武器をコルチャークに提供するということになっていたのではないかと思う。コルチャークにとってはもちろん日本円そのものは必要ないからだ。
スプートニク:ロシア外務省の文書庫で発見された契約書には、誰の名前があったのですか。

マサルスキー氏: この契約書は英語と日本語で交わされており、ウラジオストクにあったロシア国立銀行の東京における代表者シェーキン氏のサインがある。日本側からは横浜正金銀行の「カジワラ氏」と朝鮮銀行の「カタヤマ氏」のサインがある。
1919年10月6日に署名された契約書「露西亜国立銀行へ融通契約」の最初と最後のページのコピー
スプートニク: コルチャークは結局日本から武器を受け取らなかったのですか。その根拠となるのは何ですか?

マサルスキー氏: 武器の授受について文書から判断することはできない。しかし、コルチャークは、1920年2月にボリシェビキに処刑されたという歴史的事実がある。ロシアへの融通契約が結ばれたのは1919年10月だったので、これを考慮すれば、日本は物理的に、コルチャークの死までに武器を届けるのが間に合わなかったのだと思う。当時ロシアは政治的・社会的に様々なグループにわかれて内戦が続いており、権力が全く安定していなかった。この金塊についての話題は、ソ連時代(ソ連は1922年12月30日に成立)、ソ連と日本が外交関係を樹立した1925年に再燃してもおかしくなかった。日本はもしかするとソ連がこの問題について触れてくるのを予期していたかもしれないが、ソ連側から、コルチャークの金塊について話題にのぼることはなかった。

スプートニク:日本では、ロシアの金塊についてどんな情報が見つかっていますか。

マサルスキー氏:今のところ、日本には、1927年の横浜正金銀行の取締役会の議事録のコピーがある、という情報を得ている。これは、横浜正金銀行にあった金(五千万円分)が、日本政府の資産として手続きされたことを証明するものだ。日本は金の採掘をしていなかったのにもかかわらずだ。

日本のイゾ・ロクロウ大佐による、金塊が入った箱をパーヴェル・ペトロフから22箱受け取ったという受領書、そしてペトロフの、日本の弁護士に対する信任状がある。
スプートニク: 調査チームのリーダーだったシロートキン教授は亡くなりました。彼によって集められた文書はロシア外務省の書庫にあると考えられますが、残念ながら我々はコピーを手にすることはできませんでした。現在、あなたの手元にはどんな書類が残っていますか。

マサルスキー氏: 現在、我々が持っているのは、1919年10月6日に署名された契約書「露西亜国立銀行へ融通契約」の最初と最後のページのコピー、日本のイゾ・ロクロウ大佐による、金塊が入った箱をパーヴェル・ペトロフ(コルチャーク軍の少佐で、金の受け渡しを託された人物)から22箱受け取ったという受領書、そしてペトロフの、日本の弁護士に対する信任状がある。また、横浜正金銀行の年別貴金属在庫の表もある。

スプートニク:当時、三国協商としてロシアはフランス、イギリスと協力していたのに、なぜコルチャークは皇帝の金塊を日本へ担保に出すことにしたのでしょうか。革命が起きるまで、政治的にも軍事的にも仏英はロシアの同盟国でした。

マサルスキー氏: 1917年から1922年にかけてロシアではすでに内戦が起こっており、国外に輸送するルートはほぼ閉ざされていた。それに、白衛軍の拠点のかなりの部分はシベリアや極東にあった。コルチャーク自身、1918年から1919年、ロシア元首としてオムスクにいた。そのような権限をもっていたから、ロシアの金を武器と引き換えに担保に出すことができた。おそらく、当時の輸送手段で貴金属を運ぶのに最も都合がよかったのはシベリア鉄道の貨車だ。それもあってまずウラジオストクへ、その後は海路で日本へと送ったのだろう。
シベリアのコサックが1920年に亡くなったロシアのアレクサンドル・コルチャーク提督を追悼する


このお宝の探索を行なう研究者らは、コルチャークの貨車は全部で4台あり、そのうち目的地へ到達したのは3台だと考えている。残り1台は、コサックの統領グリゴーリー・セミョーノフ(ザバイカル地方と極東で活動、白軍の将官)によって、輸送中に強奪されたとされている。


スプートニク: シロートキン教授は当時、あなた方の発見についてロシアの上層部に報告したと思うのですが。

マサルスキー氏: もちろん、全ての情報をロシア外務省(当時アンドレイ・コズィレフ外相)に報告した。当時のエリツィン大統領の求めに応じて、「コルチャークの金塊」の行方を明らかにする目的で、日本に対して覚書さえ用意された。しかしこれは最も良いタイミングではなかったかもしれない。私の知る限り、コズィレフ外相は、この話は日露間の関係を改善する材料にはならないと考えていた。


横浜正金銀行の年別貴金属在庫の表


スプートニク:
「コルチャークの金塊」の捜索には、世界的に有名なアメリカのピンカートン探偵社も興味を示し、同社が、ロシアには非常に多くの金塊、不動産、債権などの蓄えがあり、それらは革命と二回の世界大戦を通じて国外に残ったままになっているということを明らかにしました。そういう資産がロシアに戻る可能性はあると思いますか。または既に前例がありますか。

マサルスキー氏: 日本は、どんな契約であっても、その条件を守る国だったと思うし、今もそうだと思う。ただ1920年、注文主であるコルチャークが殺されてしまったので、日本側は、ロシア側から資金に関するクレームはこないと踏んだのかもしれない。時々、歴史の中では、ファイナンスに関する諍いは、投資や貸付の形で解決されることがある。例えばインドネシアは、日本に直接賠償金を請求することはせず、代わりに膨大な額の投資を受けた。もし外交レベルでこの問題が再び取り上げられる日が来たとしたら、そういう可能性も日露間で排除することはできない。


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