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ラストサムライ。日本人抑留者アヒコ・テツロウのストーリー
東京の赤坂区民センターは大入りだった。劇が終わると、大きな拍手に迎えられて、老齢の男性がおぼつかない足取りで舞台に上がった。彼は涙をこらえるのがやっとで、挨拶の言葉を発することもできない。アヒコ・テツロウさん(87歳)はカザフスタンに送られた日本人抑留者のうちの唯一の生存者だ。演出家のアスハト・マエミロフに上演のインスピレーションを与え、観客が2時間にわたって「ラストサムライ」に共感して涙した、彼の驚くべき人生のストーリーをスプートニクがお伝えする。
短い子ども時代
アヒコ・テツロウさんは1930年11月5日、北海道の水産工場の工場長の家に生まれた。15歳の時、父親がアヒコさんをサハリンの軍事学校に入れた。アヒコさんは結局、この学校を卒業することがなかった。1948年、彼は5万人の日本人とともに捕虜にされ、カザフスタンのカラガンダ州にある矯正労働収容所、通称カルラグに送られたのだ。

2016年にカザフスタンのアウエゾフ記念国立アカデミー劇団で演劇「アクタスのアヒコ」を上演した演出家のアスハト・マエミロフ氏はスプートニクに対して「どうしてカルラグに行くことになったのかを、彼は全く覚えていないんです」と語る。
当時、逮捕理由はいくらでもでっち上げることができた。例えば、日本側のスパイ活動をしていたという虚偽の罪である。アヒコさんは、軍で働いたこともないのに、軍事捕虜として扱われ、カルラグの劣悪な環境での矯正労働10年という刑を言い渡された。
写真:AP_Photo
急激な成長
収容所で青年は刑事犯罪者に囲まれて暮らすことになった。当時、カルラグには主にこうした人々が収容されていたのだ。作品にも反映されたアヒコさんの回想によると、ひとかけらのパンやバラックのより暖かい場所をめぐって、簡単に人が殺されるような環境だったという。
収容者は重労働を課せられた。例えば、アヒコさんは、現在となっては目的も不明となっている壁を建設するために、石を運んでいた。食事の量は一人当たり1日2000カロリーとされていたが、実際に収容者に与えられていたのはその量の60~70%以下だった。そのため、収容所生活の末期には、アヒコ・テツロウさんの体重は24キログラムにまで落ちていた。

待ちに待った青年時代
1953年のスターリンの死後、ソ連に「雪解け」の時代が到来し、多くの政治犯が名誉回復を受けるようになった。日本人抑留者の帰国キャンペーンも始まった。抑留者は収容所で作成されたリストに沿って、徐々に帰国していった。しかし、アヒコ・テツロウという名前はどこにも載っていなかった。どうしてそうなったのかは、今も謎のままだ。25歳でカルラグを出たアヒコさんはカザフスタンに残るしかなかった。
収容所にいた頃からアヒコさんはカテリーナ・クラウスとお付き合いをしていた。彼女はボルガ川沿岸のドイツ人共同体の出身で、大祖国戦争の開始とともに、家族と一緒にカザフスタンに流刑にされた。二人の間にロマンスが生まれ、それが後に4人の子どもと数十年にわたる夫婦生活をもたらした。夫婦はカラガンダ州のアクタスという小さな村に居を構えた。定年を間近に控えたある日、カテリーナは働いていた工場の事故で亡くなった。
祖国への帰還
写真:Pixabay
年月が経ち、アヒコさんは、最初は炭鉱夫として、その後は工場で溶接工として働いていた。そんな中、日本の親戚はアヒコさんの捜索を続けていた。そしてある日、探し当てたのである。演出家のアスハト・マエミロフ氏がそのときのことを語ってくれた。

あるとき、北海道に住んでいたアヒコさんの父親が銭湯に出かけた。そこで、カザフスタンから帰ってきた二人の日本人から、テツロウという名の若者の話を聞いたのである。話の内容から自分の息子だとわかり、父親はモスクワ宛に息子を家に帰してくれるよう請願する手紙を書き始めた。ソ連政府との交渉は3年の長きにわたった。そして、1989年になって初めて、アヒコ・テツロウさんはほぼ40年ぶりに日本の土を踏んだのである。
家族が幸せの再会を果たした後、父親はアヒコさんに日本に残るよう説得を繰り返した。
アヒコさんの二人目の妻アヒコ・エレーナさんは言う。「父親は彼に、一人で戻って来いと言ったそうです。けれど、彼には家族がいました。父親は、家族は置いて一人で来いと言ったそうですが、彼にはできませんでした。」
写真:Reuters, Shamil Zhumatov
アヒコさんは家族とともにカザフスタンに残った。その後、祖国を9回訪れた。2012年には妻のエレーナさんと日本に移住することを一旦決意したものの、数ヶ月しか耐えられなかった。

アスハト氏は次のように語った。「彼が生まれ育った国はもうありませんでした。彼は、テクノロジーが人同士の交流を虐げていない田舎の生活が好きなのです。田舎では誰もが彼のことを知っていて、いつでも隣人の家を訪ねて、お茶をすることができます。ですから、日本に少し住んだだけで、再び故郷のカザフスタンに戻ってきたのです。」
思いがけない栄光
2016年、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が日本の国会でのスピーチでアヒコ・テツロウさんのストーリーを語った。このストーリーがカザフスタンのアウエゾフ記念国立アカデミー劇団のメンバーにインスピレーションを与え、演劇「アクタスのアヒコ」が上演された。筋書きの80%はアヒコさんの人生に起こった実際の事実である。2017年12月、この劇が日本で初めて上演された。

赤坂区民センターの舞台に立ったアヒコ・テツロウさんは、涙も興奮もこらえきれなかった。彼の年齢で、あれだけの苦労をした人が、公衆の面前でスピーチをするのは簡単なことではない。しかも、カルラグで過ごした青年時代を思い出すのは好きではないのだ。
赤坂区民センターのホワイエでアヒコさんをサプライズが待っていた。カルラグから解放された後に知り合った、古い友人のササイ・サクゾウさんが挨拶に来てくれたのだ。
アヒコさんと知り合ったのは、平成4年に日本に来たときに会って、後から行く人たちに通訳してもらえと言ってお土産を持っていかせました。だから覚えてました。
アヒコさんは、平成9年に行った時は日本語を思い出してました。私が花の種を持っていったら、「朝顔につるべ…」などと、日本語を思い出してました。
私がカザフスタンに平成9年と11年に行ったのはアヒコさんが通訳してくれるからいけたんです。一緒に働きました。

昔の辛かった時代の出来事の多くは、アヒコさんの記憶から消えているが、彼のストーリーはカザフスタンと日本の若者にインスピレーションを与え続けている。
アスハト・マエミロフ氏は言う。「アヒコさんのストーリーは、決してくじけなかった人の物語であり、人は絶対に諦めてはいけないということを語っています。彼は若い世代のロールモデルなのです。彼はまた、国民同士の友情が存在することを示す例でもあります。人々が仲良く暮らすようになれば、世界に調和がもたらされるはずです。」
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筆者
アナスタシア・フェドトワ

デザイン
アナスタシア・フェドトワ

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