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日露関係はすべて、大黒屋光太夫が海で遭難したことから始まった
2017年は、初めてロシアの大使が日本に派遣されてから225周年にあたる年だ。日本の歴史研究者、中村新太郎氏の著作「日本人とロシア人」によると、この時代、ロシア側の、日本と外交上のコンタクトをとろうとする試みは失敗に終わった。しかしこの出来事は、徳川幕府によって行われていた鎖国を揺るがせるきっかけとなった。このストーリーは大黒屋光太夫の船が難破したことから始まった。
© 写真: Metropolitan Museum of Art
18世紀末の日本船
© 写真: Metropolitan Museum of Art
1783年の冬、30歳の大黒屋光太夫が船頭をつとめる船「神昌丸」は、17人の乗組員を乗せ、伊勢の白子港から江戸に向けて出航。船には米や様々な商品が積まれていた。
ところが突然の嵐に合って遭難し、帆柱も折れ、櫨も失って操縦不能になり、7ヶ月も海の上を漂っていた。幸いなことに米はたくさんあり、雨のおかげで淡水を手に入れることもできた。
8月、船はロシア領であるアリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着いた。彼らはそこで、4年間暮らした。
写真: アリューシャン列島のアムチトカ島
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1787年、アムチトカ島の近くでロシアの企業家たちを乗せた船が難破した。そこでそれぞれの船の残骸を使い、ロシア人と日本人は新しい船を作った。その船で一行はカムチャッカへ向かった。そこで日本人たちは一年近く暗し、その後、現地の権力者の力を借りて、イルクーツクへ向かった。その時点で「神昌丸」の乗組員はもう6人に減ってしまっていた。病気などで亡くなってしまっていたのだ。
写真:  カムチャッカ
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イルクーツクで日本人達は、キリスト教を受け入れ、何か好きなことをやってはどうかと提案された。2人の日本人がこれを受け入れたが、後のメンバーは故郷へ自分達を帰してくれるよう頼んだ。しかし頼みは受け入れられなかった。
大黒屋光太夫はイルクーツクで知り合ったスウェーデン出身の植物学者エリック・ラクスマン(キリル・ラクスマン)に庇護を求めた。ラクスマンは日本との関係を構築し日本の学者と交流することに興味をもっていた。
写真:  18世紀のイルクーツク
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1791年の1月、ラクスマンは大黒屋光太夫と共に、エカテリーナ2世に謁見するためにサンクトペテルブルグへ向かった。
写真: 18世紀のペテルブルク
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故郷に帰りたいという日本人の嘆願と、日本と外交関係を樹立してほしいというラクスマンからの要望を受け取り、エカテリーナ2世はこれらのプロジェクトに興味をもった。彼女は大黒屋光太夫の願いを聞き入れ、その後数回にわたって会った。1791年の秋、エカテリーナ2世は漂流民を日本に送還するよう、そして日本との貿易関係を構築するよう、勅令を出した。大黒屋光太夫が日本に向かう前、女帝は彼にたばこ入れを送り、後に紐のついた金メダルと、金の時計、そしてチェルボネツ金貨150枚も贈った。
1792年の9月13日、ロシアの帆船「エカテリーナ」はオホーツクの港を出港し、36日後に根室に着いた。そこで来航の趣旨を伝えたが返事はすぐに来ず、長いこと待たされた。1793年の7月になってようやく、帆船「エカテリーナ」は函館港に入港でき、協議が行われた。これはロシアにとって、日本と友好関係を結び貿易を始めようという最初の試みであった。協定などを結ぶことはできなかったが、ロシアはこのとき、1854年に日本の鎖国が解かれるまで、他のどの外国もなし得なかったことをやってのけたのであった。それは、もしロシアが引き続き日本と話し合いをしたくなったら、長崎にロシアの船が寄港してもよいという許可の書面だった。サンクトペテルブルグでの日本人たちとの会談は、非常に役に立ったというわけだ。
写真:  長崎、18世紀
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オホーツクの港
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日本人は故郷に帰ることができたが、幾度となく尋問されるはめになった。そして彼らはロシアの真実について、初めて日本人に伝えたのだ。大黒屋光太夫は、ロシアで、彼や彼の仲間が受けた扱いについて温かく回想したため、幕府担当者からは「もしロシアで好意的な扱いをされていたのなら、どうしてそんなに故郷に帰ることにこだわったのか?」と聞かれた。大黒屋光太夫は、日本に帰ることにこだわったのは、故郷と家族に対する憂愁の情だと説明した。結局、ロシアで彼は11年間暮らした。その間に日記をつけており、見聞きしたことを全て書き留めていた。
写真:  大黒屋光太夫が旅したルート
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写真: 徳川家斉
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1794年、将軍・徳川家斉の命により、大黒屋光太夫が話したことに基づいて、桂川甫周によって「北槎聞略」が書かれた。これは百科事典のようなもので、当時のロシアの人々の生活、ロシアという国の姿が緻密に描写されている。この書は、ロシアについて日本人が書いた、最初の大きな研究書となったと言ってよい。
筆者
リュドミラ・サーキャン

デザイン
ダリヤ・グリバノフスカヤ

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