核のごまかし
20世紀の核兵器プロパガンダはどのように行われたのか
スプートニク日本
核兵器のプロパガンダ。現在なら、こんな馬鹿げたことはないと思わない人はいないだろう。現代世界にとって幸いなのは、誰もが「核ゲーム」のもたらす影響を理解していることだ。しかし、いつもこうだったわけではない。
核時代が夜明けを迎えていた頃、世界はその力と可能性に目が眩んでいた。野心あふれる大国はこぞって核ポテンシャルを増強し、徐々に国際情勢を緊張させていった。

しかし、当時の世界の大多数は、起こっていることの危険性を認識していなかった。広島と長崎の悲劇からわずか数年後、核兵器は巧みなプロパガンダによって、鑑賞の対象、観光名所、美しい記念写真など、さまざまな役割で使われるようになった。世界はまるで1945年の数万人の死に気づかなかったかのうようだった。


1946年7月25日
世界で2番目の核実験は1946年に米国で行われた。いわゆる「クロスロード作戦」では核爆弾の艦船への影響が調査された。実験は(「トリニティ実験」と広島・長崎の原爆投下に続いて)米国による4番目と5番目の核爆発となった。

観光「ブーム」
米国の核実験の大半はネバダ実験場で行われた。そこからわずか100㎞の距離にあるラスベガスは爆発を見るのに最適な場所だった。ラスベガスには爆発の際の発光や大きなキノコ雲を安全な距離から見たいという観光客が押しかけた。
ゲストが「ショー」のハイライトを逃さないよう、当局は実験スケジュールと最高のビューポイントを示したガイドブックを発行した。ホテル側はキノコ雲の「絶景」を宣伝文句に客を引き寄せた。ラスベガスのバーでは「核カクテル」(シャンパン、ウォッカ、シェリー、ブランデーを混ぜたもの)を販売し、カジノやホテルは核爆発と「核バレエ」を記念してパーティーを催した。当局の一人はジャーナリストのダニエル・ラングに対して「実験は酔狂な曲目みたいなものだと人々に納得してもらう必要がある」と語った。
フレモント・ストリートから見たキノコ雲
1955年頃、ラスベガス
放射能の美
ベガスの「核祭り」の必須イベントがミスコンテストである。初めてミスコンが行われたのは1852年のこと。
初の優勝者はダンサーのキャンディス・キングで、彼女には「ミス核爆発」の称号と数キログラムのマッシュルームが贈られた。

類似の称号「ミス放射能」を受賞したのが歌手のマルガリート・ピアゼである。この称号は彼女のコンサートの上客だった米軍兵士たちによって贈られた。

女優のリンダ・ローソンには「ミス・キュー」(前回の核実験の名称)の称号が贈られ、彼女にもキノコ雲の形のティアラが贈られた。
ミス核爆弾のリー・メルリン
1957年、最後にして最も有名なミス核爆弾となったのがダンサーのリー・メルリンである。彼女の衣装は水着に何の変哲もない綿を貼り付けたものだった。このダンサーの写真はアメリカの歴史の一部となっている。これが最後のミス核コンクールとなり、その5年後にはネバダでの核実験も終了した。

このお祭り気分の時期に、核兵器が全世界にとってどれほどの問題となり、脅威となるのかを認識している者が少なかったのは明らかだ。広島と長崎の原爆投下は多くの人にまだ悲劇だとは認識されていなかった。キューバ危機が世界に対して、世界全体が広島と長崎と同じように一瞬にして核実験場と化してしまい得うるとを示すのも、まだ先のことだった。
バレリーナのサリー・マククロスキがチャールストン山で「核のバレエ」を披露。
バレリーナの後ろには核爆発の雲が見えている。1953年4月6日、ネバダ州
いつか謝罪の言葉が発されるのかどうか、わからない。もしかすると、この二つの国(編集者注:アメリカと日本)は、お互いをつなぎ、「私たちは、双方ともに甚大な被害を被ったことを認め、これを認識しながらこれからも生き続けていく。そして、同じことを将来起こさないことを約束する」と言えるような、共通言語を見つけることができるかもしれない。けれど、アメリが心から日本に許しを請うたり、その逆が起こったりすることは今後もなさそうだ。
トルーマン大統領の孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルが、アメリカは広島と長崎への原爆投下を謝罪するかという質問に答えた。
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