日本初のクラシックカー・ラリー:広島から長崎までを走る
8月6日8時15分。6台の豪華なクラシックカーが日本の最も悲劇的なルート、広島と長崎結ぶ道のりを出発した。これは平和と文化保存を応援するクラシックカー・ラリーの日本での第1ステップである。ラリー終了後、スプートニクは参加者に会い、今回の旅のメッセージは何なのか、この旅が彼らの歴史観にどのような影響を与えたのか聞いた。
千里の道も一歩か
この道徳経のフレーズは中国の偉大な思想家、老子の言葉である。老子の死から2500年後、Peace&Culture Rallyの日本チームのリーダーである河村博光はこの言葉に新たな意味を与え、「日々小さなことから一歩を踏み出す勇気を持ち、自分を変えていこう。それが世の中を変えていくことにつながり、平和にもつながる」という慈善ラリーのスローガンにした。

今回のラリーは一部の参加者にとっては、平和を広める初めてのステップではなかった。河村さんとジョン・タメンヌさんは2017年5月と2018年5月にモナコからサンクトペテルブルクまで、ユーラシア大陸の平和と対ロ制裁の解除を応援するラリーに参加している。このラリーから帰国した後、河村さんは同様のラリーを祖国でも開催すると決めた。
「広島と長崎で歴史的には悲しいことが起きましたが、それがあって今の日本があります。その広島・長崎の現実をヨーロッパにも伝えていく必要があります。同時に平和であることの大切さも伝えていかないといけません。」

河村さん

ラリーは、パイロットたちの野心的な夢の実現に向けた準備でもあった。彼らは2020年のオリンピックの前にクラシックカーでモナコから東京まで、ロシア全土を横断して走破したいと考えており、これを通じてユーラシア大陸に国境があるべきではないということを示したいと考えている。
トラブルが起きても、諦めずにやっていけば乗り越えられる
広島から長崎までの道のり(604㎞)は4日かかった。ラリーに参加した6台のうち最も古いのが、1958年発売のトラアンフTR3-Aである。最も手がかかるのが若い阪口ユウキさんの運転する1972年モデルのフィアット500である。
「これは人生で初めて買った車です。もともと車には興味がなかったのですが、クラシックカーでラリーという投稿を見ると、ラリー中に車が壊れては直すと書かれており、面白そうだと思いました。古い車を買い、可愛がって、整備が出来るようになれば新しい何かが見えるのではと考え、全く知らない状態でしたが、チャレンジしたかった。」

阪口さん
頻繁にモーターに問題が起こるため、阪口さんはリタイアしそうになったという。「2日目に高千穂に行きましたが、高千穂神社に行く際にテレビの取材が入り、絶対に間に合わせる必要がありました。僕の車がどうしても遅いため、他の車だけ先に行ってもらい、取材を受けてもらいました。僕の車とサポートカー1台だけで後ろから頑張って付いていきましたが、途中で壊れてしまい、山のど真ん中で応急処置がないとどうにもならない状況に陥りました。いつもは整備をジョンさんや河村さんが行い、僕は見ているだけ。ですが2人がいない今、残ったメンバーは素人ばかり。そうした中、「このネジはここに入るんじゃないか」と(手探りで修理し)、車のマフラーが取れかかっていたため、皆で針金を折り曲げてくくりつけ、何とか固定しました。そして再び走り出し、取材を終えた皆が帰ろうとした瞬間、ぎりぎり神社に間に合いました。諦めていたらたぶん間に合わなかったでしょう。ピースラリーは古い車なので壊れることは想定済みです。それを仲間と一緒に乗り越えて完走することが一番の醍醐味で、その成功体験を味わえたことに感動しました。」

それでも彼の自動車は604㎞の道のりを走破した。後に阪口さんは、ラリーに参加したことは彼にとって人生の重要な教訓になったと語ってくれた。「ピースラリーを通じて(学んだことは)、何かトラブルが起きると仲間と一緒に乗り越えたり、自力で乗り越えること。ピースラリーのみならず、人生でも同じだと思います。何かが起きて、打ちのめされても、前に進まないといけない。そのために学んでいく。今後人生でトラブルが起きても、こういう風に諦めずにやっていけば乗り越えられると感じました。」
今まで知らなかった自分にショックを感じました
パイロットたちは広島平和記念式典と長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典に参加し、両都市の原爆資料館を訪れた。ラリーに参加した小林弥生子さんは言う。
「広島はこの3年、仕事で年に2回は訪れる場所です。仕事だけの場所だったんですが、今回は全く違うところから広島入り。ただ訪問するだけのお客さんではなく、広島の原爆や平和を伝え、外に広げていく側として参加したため、全く違う目線で広島に入り行動しました。」これまで小林さんは資料館を訪れたり、原爆を生き抜いた人々の話を聞いたりしたことはなかった。今回見たことや聞いたことはショックだったと彼女は言う。「広島への原爆投下の重大さ、落とされた場所。日本、世界にとって大きな話であり、広島からのお客さんがいるなかで、彼らがどう生きてきたかという話を聞き、今までと全く違うように広島を見るようになりました。」

小林さん
日本のパイロットたちと一緒にPeace&Culture Rallyのジョン・タメンヌ会長も旅に参加した。彼が広島と長崎を訪れたのは初めてのことだ。「広島に到着して式典に出席したとき、私はアメリカ人でなくてよかったと思いました。もしアメリカ人だったら、恥ずかしくて来られなかっただろうというのが、私が感じたことです。」ラリーに出発するにあたり、彼は政治的目標を掲げていた。「今回のラリーの目標は次にことを示すことです。原爆投下も東京大空襲も必要なかったということ。これらの都市は軍事上の目標ではありませんでした。私は、原爆投下は私たちヨーロッパの文化ではなく、米国の文化なのだと示したいのです。」

広島と長崎の原爆投下の責任を負うのは誰かという私たちの質問に、日本人の参加者は次のように答えた。
「直接的に原爆を落としたのはアメリカです。ただ戦時は、ヨーロッパは知りませんが、色々な国が日本側とアメリカ側に(分かれた)。アメリカと組んで戦争した国もあるので、直接関係はないかもしれないけれど、そう言い切るのは怖い気がします。原爆投下は、アメリカが世界の色々なところから許可を受けて実行したことですよね。そのなかにヨーロッパは入っています。」
阪口さんと小林さんによると、ラリーに参加することを決めたのは自国の歴史の悲劇的な出来事を考え直したり、理解したいと思ったからではなく、平和の考えを広め、忘れられない思い出を得たいと思ったからだという。
Peace&Culture Rallyのメンバーは8月にはベオグラードに出発した。1999年に空爆を受けたこの都市を応援するためだ。さらに新たな参加者を加え、2020年のラリーに備える計画だ。
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