国境に隔てられ
日本人写真家が示す、地図上の線が人の運命に与える影響
「同じ魚が泳いでいて、同じ鳥が飛んでいるわけですよ。あっちもこっちも。なのに住んでいる人が違うだけでここまで世界観が違ってしまう。」かつてのクナシル(国後)島旅行を思い出し、日本人の写真家、菱田雄介氏が語る。当時発見したロシアと日本の構造の違いは、菱田氏に国境の意味を再考させた。菱田氏はすでに10年間、地図上の一本の細い線が、その両側に住む数百万の人びとの運命に及ぼす影響を研究している。菱田氏は最近、北朝鮮と韓国に関する作品『border|korea』を完成させた。この作品はすぐさま人気を得た。菱田氏はスプートニクのインタビューで、生まれた時にはなかった日本に対するノスタルジーを北朝鮮で感じたと語った。
北朝鮮と韓国の境界線
「昔の日本はこういう感じだったのかなと思いましたね。」 平壌を菱田氏は回想する。『border|korea』作成中、彼は平壌に7回訪れた。
「それは開発が進んでいなく、古いアジアの形を残していること、全体主義で戦時中の日本はこういう感じだったんじゃないかと。軍事が中心で国に忠誠を誓って、すべてのものは国が強くなるために存在しているというマインド。そして米国と敵対している。これはすべて戦時中の日本。1930年代後半から1940年代前半の日本はこうだったのではないかとすごく思いました。別の写真家とこの写真のことを話していて、彼も北朝鮮に不思議ななつかしさを感じるというんですね。それは日本人がかつて持っていた軍国主義の体制だし、その中にあるつつましやかな市民の生活だと。北朝鮮には自分が行くことができない古い日本を感じる気がします」。

菱田雄介
菱田氏は7年間の間に7回北朝鮮を訪問し、観光ルートとして解放されている場所で写真を撮影した。
「日本に来た人が東京ディズニーランドに行くのと同じように、平壌では観光イコール病院や学校に行くということなので、踊ったり勉強したりする子どもを見せられます。ポートレートを撮らせてもらうのには許可がいるので『いいですよ』と言われると、向こうが選んできた数人を撮ることになります。次に行くときは前に撮った写真を持っていくわけです。7回行っていますが、それまでの6回分の写真を持って行って、渡せる人には渡して、会えない場合はガイドさんに渡しておいてくださいと預けます。写真はチェックのためではなくプレゼントのために持っていきます」 。

菱田雄介
作業は6年に渡り、2017年に写真集を出版した。2018年4月には写真集は突如、特別な歴史的価値を得た。 「2009年から2015年にかけて撮影していますが、撮影中はまさか米国の大統領と金正恩氏が握手するだろうなど、思いもしなかったですね。」 菱田氏は、政治的変化に関わらず、朝鮮半島の人びとはまだ統一の準備が出来ておらず、望んでいないと確信している。
「今のままでもいいと思います。だって70年間も離れて住んでいて、全然違う文化の人達だから、統一しても今のドイツみたいに一緒になるのはすごく難しいことだと思います。なにがよくて、なにがわるいという価値観が全然違うと国はうまくいかないと思います。今は米国と北朝鮮の間でこういう状態になっているだけで。統一するというと、つまり金正恩体制が無くなることになります。金正恩を残したままで韓国が統一するはずがない。じゃあ、統一した国の大統領を金正恩氏にして韓国人がそこで従うのかというと、それはたぶんないから」。

菱田雄介
ロシアと日本の国境線
「境界」プロジェクトシリーズは2008年、北海道とクナシル島の違いを調べることから始まり、「日本後」時代の諸島での暮らしの本質に入り込もうとした。
「クリルは北海道からわずか16キロにもかかわらず、あそこに足を踏み入れると完全にロシアの人達の生活があるっていうビジュアル的な不思議さというか。感じとしてはヨーロッパのようなロシアの生活がある。日本にとってはやっぱり感覚としてヨーロッパ的じゃないですか。金髪の人達が普通に学校行っていて…というのは飛行機で何時間もかけていかないとないもの、という認識があるんですよ。目で見えるすぐそこにロシア的な世界があるっていうのは、とても不思議な感じがありますよね。こちら側は普通に日本ですよね。セブンイレブンがあって、ラーメン屋があって、カレーライスが食べられる日本がある。でもすぐそばの島の中では全く別の言葉が話される全く別の世界がある」。

菱田雄介
菱田氏は、日本からこれほど近いクナシル島が呈する違いに驚愕した。 「北海道も国後も同じような土地じゃないですか。そこにあるものは、土があって草が生えていて、空には空があって。でも景色は全く異なっていて、誰が見てもここは日本、ここはロシアとわかる。」
露日の領土問題の緊張に関わらず、菱田氏はロシア人がいい人たちだと認める。
「ロシア人でも韓国人でも日本人でもいい人もいれば悪い人もいるので、ロシア人だからなんだというつもりはないんですけど、日本人の中ではロシア人の古いイメージはなんかこう、怖いとか(笑)。一緒に撮影したロシア人とかは僕は言葉がわからないのでよくわからないけど、すごいホスピタリティがあって、よく協力してくれたし、優しかったですね」。

菱田雄介
写真家と歴史家の違い
菱田氏は、テレビ局のジャーナリストとして働いていた。写真家になったのは偶然で、2001年9月11日、米ニューヨークで起きた同時多発テロ事件のあとのことだ。
「(テロ事件の)少しあとの11月にニューヨークに行って取材して見た街の姿にすごく感動して、歴史を見たと思ったんですよね。ニューヨーク中が悲しみに沈んでいたし、同時に激しい怒りをもっていたし、ワールドトレードセンターの近くのお店とか商品はまだ埃をかぶっていて…。これは自分のカメラで記憶しておいて、別の形で伝えたいと強く思ったんです。だからテレビのディレクターとしてのニューヨークでの取材は終わって、そのまま日本に帰ったんですけど、そのあと、続きをまた撮って自分のものにしたいと思って。それで写真家としての仕事を意識するようになった」。

菱田雄介
菱田氏は、寿命の短いテレビ報道には満足できないようになり、息の長い歴史を示したいと望むようになった。そうして第1作目の写真集『NEWYORK 2001』が生まれた。その後、菱田氏のカメラは、アフガニスタンやイラクでの戦争、東日本大震災を映してきた。
2005年、菱田氏はロシアのベスラン市を訪れた。同地はまだ、2004年9月1日に起きたベスラン第一中等学校の占拠事件から立ち直っていなかった。事件ではテロリストが千人を超える児童、教師、保護者を人質に取った。人びとは食料も水もなく、テロリストによって殺された人質の腐りゆく死体に囲まれ、爆弾を仕掛けられた建物で3日間を過ごした。72時間で333人が死亡。うち186人は子どもだった。
「ベスランは事件があって、廃墟になった学校がそのまま残っているんですよね。そこに子どものノート、教科書が沢山散らばっているんですけど、そこに書かれている字がすごくきれいなんですよ。ロシアの子どもってなんであんなにきれいな字を書くんだろうって思いますけど、それがすごく印象に残っています。テロであんなにたくさんの人が殺された現場に整然としたものが残されているっていうのが、感動というか、すごく印象に残っています」。

菱田雄介
このプロジェクトで菱田氏は「 Nikon Miki Jun Encouragement Prize」賞を受賞した。
菱田氏は写真家とも歴史家とも自認しておらず、その境界線上にいると述べる。
「僕はまだ歴史になっていない出来事をジャーナリストから一歩遅れてそこにいって写真を撮ったり、文章を書いたりすることを自分はやりたいと思っているので、ジャーナリストと歴史家の真ん中にいる者であるとおもうし、ありたいと思っています」。

菱田雄介
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